昭和47年02月12日 朝の御理解
御理解 第58節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」
「しっかり信心の帯をせよ」と仰る。問題は信心が出来ておらなければ、しっかりした信心の帯がだから出来ない。私は今日信心ということを、信心、いわゆる信ずる心、真心、まごころ、神心、かみごころという風にいつも申しておりますけども、私はこの信心、いわゆる信ずる心、のちろん神様を信ずる心ですよね。神様を信ずる心を頂くためにね、やはり真心、神心というものを、身に付けさせて頂く稽古の方が先だと思うですね。でなかったら、信心というものは生まれてこない。
私がこれを実は、信心、信ずる心を一番初めにこう思うておったけれども、そうではない。やはり信心させて頂くなら、まず一つ本気で真心とはと、いわゆるその真心を追及、いよいよさして頂いて、真心にならせて頂く。これがまあ、神心でもあろうかと、自分が思わして頂けるような、有難い、ね、言うなら心を使わして頂く稽古を私は先にしなければ、信心は生まれてこないと思う。ただ拝むことが信心だという程度ならですね、それは良いでしょうけれども、信心というのが、いわゆる信ずる心。
しかもそれは神様を信ずる心を頂かせて頂くために、私どもは真心にならなければならない。いわゆる真心を追求して行かなければならんということになる。ね、そして自分の心の中に、はあ、神心とはこういう心であろうかと、自分の心の中に、われとわが心を拝ましてもらえるような心が育ってくる。これが先であって、そこから信心、いわゆる信ずる心と、神様を信じて疑わない心というものは生まれてくるんだと思う。
だからそういう一つの信心がでけて参りますところからです、ね、神様を信じておるのですから。ね、ですから、例えば人が泥棒じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立てることはいらんということになってくる。ね、神様を信ずるから、腹を立てんで済むわけです。ね、ですから、もう、一つ本気でね、信心さして頂くなら、一つ真心の追求をしなければならない。ね、真心一つで助かると仰るのですから、ね、その真心をいよいよ追求さしてもらう。
昨日でした。福岡の古屋さんがここへお届けに見えてから、先日から、「ばかになれ、あほになれ」という御教えを頂かれた。「ばかになれ、あほになれという御教えだった。先生ああいう御教えを頂きましたが、あれは神様を信じておるから、ばかとあほになれるのでしょうか」というお伺いであった。「いいえ、それは違いますよ」と言うて、ま、申しましたことでした。
皆さんはどう思われますでしょうか。今日の御理解から頂きますとですね、信ずる心、いわゆる信心、信心が出来ておればです、それは人がばかと言うても、あほと言うても、いわゆるひどいことを言う、いわゆるばか、泥棒じゃ乞食じゃと言うてもです、信心の帯がしっかりできておるから、腹も立たんですね。だから、信じておるからでなくてね、信じていないから、よく分かっていないから、神様をいよいよ信じさせて頂く稽古のために、ばかともなれば、あほともなるのですよと申しましたことでした。
私はこの辺が大事なとこだと思うですね。皆さんがね、なら、ばかとあほになればおかげが頂けるから、ばかとあほになるといったようなことではけないということ。親先生が仰る通りにすればおかげになるから、親先生任せになるということじゃいかんということ。ね、いよいよ神様を信じさせて頂けれるおかげが頂けるためにです、神様が信じられる稽古のために、馬鹿になれ、あほになれと仰りゃ、だからきついです。馬鹿になることもあほになることもきついです。
ほんとここに馬鹿にならにゃんじゃろうか、あほにならなんじゃろうかと思うごとあるけど、それがいよいよ神様を信ずることの出来る稽古なのですから。だからいかに教えというものがです、本気で、ね、行じられなければならんかということが分かります。教祖の神様の御教えというものは、これは絶対のものにしなければなりません。信心するからにはね。絶対なもの。ね、例えば、「有難く、有り難いと、有り難く頂く心があれば、たとえば障ることなし」と仰るような御教えがありますよね。
ところがなら、「神様頂きます」と言うて食物を頂いた。「頂きます」と言うて頂いたけれども、お腹が痛くなったとたとえば致しますか、ね、あれほど神様いただきますと言うて頂いていたのに当たったと。神様もいいかげんなものだというのでなくて、そん頂きますという心の内容がね、本当なものではなかったんだと。これは私の方に、おかげの受けられん、いやお腹が痛んだとするならば、お腹の痛む元はこっちの方にあったんだという頂き方なんです。
信心はもう是で行くより以外にないです。所謂今日言う信心といや信ずる心をね、勿論神様を信ずる心なんですよ。神を信ずる心だから信心生活とはね、神様を信じて疑わない生活なんです信心生活とはね、いうならあばです神ありと信じての生活。神様がござるじゃろうか、ほんななこて御座るじゃろうかと言いながら、いくら拝んだってですそれは信心生活になりません。世の中にはやはり無神論という人がありますよね。
無神論者と、この世には神も仏もないと、あるのはもう自分だ、自分の力だけだと。ね、それこそ無神論での、ま、親玉のようなマルクスですか、あの人がもう五年間生きていたら、有神論者になっておっただろうと言われとりますですね。無神論ということをも少し極め、もう少し勉強してもう五年間生きておったら、マルクスは有神論者になっておっただろうと。そこで私はそのマルクスとか何とかじゃなくてです、いわゆる観念の上に表れてくるところの神様では、これは何にもならんのです。
ね、最近はどうも教学が盛んになりましてね、観念の上で神ありと信じておるという人が多くなったです。これではね、いかに例えば観念の上で神ありと言うておってもです、そういう信心での帯では役に立たんのです。言うならですね、いわゆるおかげに漏れることになるのです。私どもはやはりおかげを頂かなきゃいけません。ね、ですからおかげの伴わない私は信心であったり、神様であったりしては、いくら神ありと信じてもです、それは役に立ちません。
私がこういう風に、な、言い方を致しますとですね、多くの信心をしておるものでもです、合楽の信心は野暮くさいと言うです。野蛮だというです。ね、そういう信心は卒業しなければと言うて、まあ言うなら観念の神様をまあ、それが本当だと。いわゆる現代に布教すると言われることもです、観念の神様を押しつけようとするような感じです。ね、だから御本部辺りで、いろいろとお話をしてくれと。ラジオをなんかで放送してくれと言う前にですね、おかげ話をしてくれるなと言うのですからね。おかしいでしょう。
おかげを頂く信心とは、なんか野蛮な信心のように言う。おかしな話。ね、天地とともに極まりのないところの信心、金光様の御信心は。天地とともに極まりなく、おかげの頂いて行けれる道なんです。ね、そういう、尊い道に縁を頂きながらです、おかげをただ観念の上に分かるところの神様。そういうことではですね、いわゆる、御利益に触れることが出来ません。
私はどもうこまでもです、生き生きとした御利益、生き生きとしたおかげがですね、伴うておらなければ、もうその信心は死んだ信心だと思います。そいで観念、この頃から、そういう観念の上に現れてくるところの神様。ね、学問の上からはじきだしたところの神様そういう神様では何にもなん。知ってはならぬというのではない。私どもは本当に生きた神様をそこに感じ、そこに頂かせてもろうて、ね、教学の上においても、神様が分かると言うのならまだ話は分かりますけど。
だからまず、そういう意味での観念の神様をまずお供えして、もう直に神様を感じられる、いわゆる神様が信じられる。いやこの神様のおかげを、頂かなければ立ち行かんという信心、信念というものがです、頂けれる信心のためにです、ね。私どもが教えを本気で行じなければならんということになります。馬鹿になれ、あほになれ、さあここで馬鹿になるということは、あほうになることはつらい。ね、ここでは利口者になりたい。泥棒と言われりゃ、いつ私が泥棒したかと言うて弁明したい。
けれどもね、馬鹿になれ、阿呆になれと言われるから、言うならば金光様金光様で一生懸命で、胸撫で下ろして言わば辛抱するということ。信心辛抱ですこれが。ね、そうすと成程言わんで良かった、辛抱して良かったという体験が次に生まれてくるのです、必ず。ね、だから成程という神様を、そこに見、聞きまたは、心に感じ取ることが出来るのです。だから馬鹿になれ阿呆になれと言うことは。
神様をたとえばばかにれ、あほになれというだけではないですよ。教えの全てがそうなんです。だから神様が、ね、そうあれと教えて下さるから、親先生が馬鹿となれ、阿呆になれと仰るから、馬鹿になる阿呆になる稽古をするのです。その向うに必ず体験が生まれてくる。ただ馬鹿になっただけで、阿呆になっただけで病気が治る。いよいよ馬鹿になった、阿呆になっただけで金銭のお繰り合わせを頂く。思いもかけないところのおかげが頂けてくるようになる。
それを「また先生失敗しました」というようなことばっかりで、おかげの頂けるはずはない。馬鹿になることも阿呆になることもです、教えを行ずるということは、ね、神を信じさせてもらう。神様を信じさしてもらう、おかげの頂けれる言うならばよすがになるものである。だから、教えを行ぜずして頂いた神様というものは、それは本なものじゃないということです。ね、ただお願いをして、おかげを頂いたから、ああやっぱり神様はござるといった程度の神様であったり、ね。
観念上で分かった勉強て、成程神様が実在されるんだと言う事が解っただけでは、それは役に立ちませんものの役に。ね、私どもが本気で教えを頂き教えを行じて、そこから生まれてくるおかげ成程神様じゃと分かる。そういう信心でなからなければ、信心の所謂帯をせよと仰る信心の帯にはならん。ね、そこでなら例えば教えというものを、例えば私がならこの教典を二十何年間、皆さんに説き続けておりますけどね、その御教えの深遠さ間違いなさと言う事を、いわば何年間か説いてきとる訳で御座います。
ですからそれが信じられる、神様を絶対なものにしての信心です。それはまどういうふうになるかというとですね、神様は絶対のもの、ただこちらのです、ね、神様頂きますという心あらば、障ることも当たることもないと仰る。例えば食物でもです、神様頂きますと言うて頂いたけれども、障った当たったというなら、神様頂きますという時の、その頂きますの状態が、本なものではなかったと極めて行く以外にない。でないと教えは嘘になってくる。頂きますと言うたばってん、障ったという。
是では信心はそこで挫折してしまう。だからそこん所を追求する。所謂真心それを追求して行く。よく軽業なんかでやりますよね。向うに人を立てておいてこちらから手裏剣のようなものをパンと投げてこうしとる。もうこう言う所まで手裏剣がサッサッと入って、もう首のこの辺の所まで手裏剣が入っていくと。神様はそのようにも一分一厘間違いのない働きをして下さるんですけれども、こちらが動ずる。
こちらが動くからぶすっと手に当たったり首に当たったりする訳なんです。そうでしょう。先生はああ仰るけれども、どうも不安でたまらんというて動揺する。だからおかげにならん。ね、先生の仰る事は絶対のものだと信じれれる心が信心なんです。その信心の帯をするから成程馬鹿と言われても、あほと言われてもいや乞食じゃと言われても、腹を立てんで済むものです。そして必ずやその向うにおかげが伴うておる。
そこで教えを本気で行ずるということが、有難いことになってくる。行ずることになってくるのです。今日私は信心生活とは、ね、神ありと信じての生活、信心生活とは。ね、今日申します。神様が見ておいでである、神様が聞いておいでである。観ておいでである、ね、それを信じての生活こそが信心生活なんです。信ずる心、そこにいわば安心の生活が約束されるわけです。
そこでその信心、いわゆる信ずる心、神様を信じて疑わないで済むところのおかげを、頂くためにどういう信心させてもらっららよいか、ひとつ本気で教えを行ずること以外にはないと。ね、馬鹿になれ、あほになれと教えを頂いて、これは神様を信じておらなければ出来ることでじゃない、と言うのではなくて、神様を信じていないから、神様が分かっていないから、本気で馬鹿になって見れ、本気であほになって見れ、そこに神様の働きを表してみせて下さる。ね、神様を分かるための手段なんです。
教えを守るということは、ね、成程馬鹿になれ、あほになれ仰ったから、馬鹿になったら、あほになったら、なるほどこういう体験がその次に生まれてくるおかげが頂かれるということが分かるから、ね、神様があると信ずることができる。それを繰り返し繰り返していっているうちに、いわゆる確固たるいわゆる不動のもの。ね、神様を信じて疑わない、本当の意味においての信心生活が出来る。
そこで信心、神心、真心と、信ずる心、または真心、神心というふうにいうとりましたけれども、私ども真心になるということが先決。本気で神心を求めて行くということがまず先。そこから初めてね、信心が生まれてくる。信ずる心である。神様を信じ疑わないという心である。これはね、ここんところが少したとえば乱れてくると、もうおかげが乱れてくるのです。
段々今年は、沢山高校受験とか、大学受験とかと、ね、で、お願いが沢山あっとります。まあ大概な人はいうことは、先生を知っとる。ね、まあ市会議員の人やら、顔役の人に「頼んどかんでもよかでしょうか」と。ね、だから場合によっては、私は「それは頼んどくがよかろう」と言うですけれど、ね、「そげなことはいるまい」とこう私が言う。「先生はあげん言いなさるばってん、先生にこっそりと頼んどこう」と言う人があるです。そしてからおかげ頂かんと、「おかげを頂ききらじゃった」とこう言う。
もうそれでね、神様を信ずる、せっかく神様を信じさせてもらえれる絶好の機会を頂きながら、チャンスを頂きながら、ね、神様よりも人を信ずる。だから神様を信じたことにはならないのです。ね、この辺のこれはそれだけのことだけではありません。一事が万事にです、神様を信ずる稽古、ならそれでいてですよ、親先生が仰っしやった通りにしたばってん、落第したということになりましょうか。
そういう時にです、ね、先ほど頂きますと頂いたけれども、障ったというと時にまだ頂きますということが、頂きますという、それが本当でなかったと、これを極めて行く以外にはない。そこからです、ね、そこんところを繰り返し繰り返さして頂いておるうちに、絶対のものが生まれてくるのですよ。この辺のところがまあ難しいですね。「本当に先生が言いなさるようにでっす、したけれども入学出来じゃった。ね、あの人に頼んどきゃ、入学しとったかもしれん」というような思い方をする。
いいや、神様任せになって落第したのだから、神様の働きに間違はいない。いやまだ落第したのはまだこちらの方の頂き方が本当のことではなかったんだと。もう神様に向かって一にも押し、二にも押し、三にも押しで押して行く以外にないです。信心は。いや、今日私が言う信心を身につけて下さることのために、信心の帯をしっかりさせて頂くために、そういうたとえば過程を通らなければ、本当の信心は生まれてきません。
「お願いしたばってん、おかげ頂かんじゃった。もうあれぎり止めとく」というようなことで信心が頂けるはずはありません。神様にお願いをして、そしておすがりをさせて頂いて、親先生任せにならせて頂いて、それでいて、却って反対反対の目が出て行くということもある。ね、そこを頂き抜かせて頂いて初めて、信心というものは生まれてくる。これはまだ信心が足りんのだと、真心を追求して行く。ね。
神心にならして頂くことに精進さしてもらうという、信心はそういう生き方を願っての信心、そこからほんとの信心生活が出来てくるようになる。ね、そこで、なるほどおかげと信心というものを結びつけちゃ、たとえばならんというような言い方もされるわけなのです。ね、おかげを頂くためではなくて、信心を頂くためにというふうに言われるわけです。けれども私は思うのです。生き生きとしたおかげというものが伴わないという信心は、あってよかろうはずがない。ね。
もしそれが伴わないとすならば、それは観念の信心であったり、ね、いわゆる死んだ信心、死んだ宗教だと言わなければならん。この辺のところもやはり中々難しいことと思います。ね、いよいよ信ずる心を頂かし頂く。いわゆる、しっかりいつも信心の帯をしておれれるという生活を、信心生活というのである。親先生を信じておるから、親先生任せになっておる。親先生を信じてはいないけれども、信じられるおかげを頂くために親先生任せになっておる。ね、だからどちらも本当なんです。
段々そこのところ、繰り返しおかげ頂いておるうちにです、親先生の仰ることに間違いはないと信じさせて頂いて任せる。これが立派なこと。けど、その過程として信じられないから、神様が信じられないから、教えを本気で守るということになる。ね、そして教えを守ることによって、生まれてくる体験、成程神様ありと信じさせてもらう。そこから本当の信心生活。いわゆる神様の願いとされるところの信心生活が出来てくる。私どもの願いもやはりそこに焦点を置かなければならん。
どうぞ。